告白 第二章
2
時はゆっくりと進みます。特に心の中に悩み事や秘め事を抱えている時は、意地悪なほど時間はのろのろと通り過ぎていきます。
Aさんは何度か診療に来られ、私が診ることもありました。これまでと同じように話しかけてこられます。いえ、以前より楽しそうに話をされます。二人だけの秘密を持つことで、私への親近感を得ておられたのだと思います。私はできる限り普通に応対しました。まるで何事もなかったかのように。
あれから二ヶ月が過ぎました。あの日、私は一人の患者さんを見ていました。五十代の女性で、初診でこられたときは重度の歯周病を患っておられました。院長も対応に困り、「とりあえずクリーニングでお茶を濁してくれ」と私にその患者さんを回してきました。今から一年以上の前のことです。それから毎回、私が診ています。今では随分良くなりました。劇的な改善とまでは行きませんが、私ができるせいいっぱいの結果が得られたと思っています。
「あんた腕はしっかりしてるけど、愛想のない子だねぇ」
診療が終わり、チェアから降りながら口さがないおばさんは、大きな口を空けて言いました。いつも院長はその声に顔をあからさまに顰めます。
「すいません」と私が頭を下げると、「ほらまた」と平手で私の肩を叩きました。「そこで何かジョークを返すのよ。しょうがないわねぇ」
私は診療室を出て行くおばさんを見送りながら、もう少し足を横にではなく前に出して歩かれた方がいいのではないかと思いました。
後ろから突然肩を叩かれ、驚いて振り向きました。そこには顔を顰めた院長が立っていました。
「ちょっと院長室まで来てくれ」
院長の言葉に、心臓が高鳴りました。ここニ、三年。院長が私だけを呼び出すことはありませんでした。衛生士の中で私は一番の古株でしたが、チーフは別の衛生士に任されています。院長はいつまで経っても打ち解けようとしない私を持て余しているのだと思います。
受付の子が院長の声に反応して、こちらに振り返りましたが、私と目が合うと慌てて逸らしました。ほかの二人の衛生士は何食わぬ顔で診療室内の掃除をしていました。
嫌な予感がしましたけど、私は仕方なく、背中を向けたまま足早に診療室に向かう院長の後を重い足取りでついていきました。
がっちりとした院長の背中を見ながら、不安がどっと押し寄せてきました。
(何を言われるのだろうか……)私の頭をぐるぐると思考が回りました。まさかさっきのおばさんのことではあるまいと思いました。
院長の後について院長室に入りました。奥の壁には窓があり、窓の下にデスクトップパソコンが置かれた重厚な机があります。他の三方の壁は入口を除いて全て本棚で埋め尽くされています。部屋の真ん中には小さな応接セットがあり、院長に進められるまま、私は古びたソファーに腰を下ろしました。
院長は向かい側のソファーに足を広げて座りました。窓を背にして座っているため、細かい表情はわかりませんでしたが、鋭い目線を私に注いでいることはわかりました。
「私はまどろっこしいことが嫌いなので、単刀直入に言う。最近、受付台の販売用品が無くなっているのは知っているね」
予想していたより、院長の声は穏やかでした。それでも、私の不安と緊張を静める役には立ちませんでした。院長は私の同意を求めようと言葉を切りましたから、私は仕方なく「はい」と答えました。自分の気弱さが嫌になるぐらい、声は振るえか細い物でした。
「先日、○○がなくなった。しかし受付に聞くと、売れたのではないという。確かに収支を精算しても○○の売り上げ分だけ不足していた」そこで院長はゆっくりと息を吐き出しました。
「君は、何か知っているんじゃないのかね」
私は打ちのめされました。院長は知っていたのだと思いました。それと同時にAさんの顔が浮かびました。
診療の後、優しげな微笑を浮かべ、『ありがとう』とおっしゃるAさんの顔。そして『君も共犯者だ』と呟いたときの、乾いた視線と張り付いたような無表情なAさんの顔。
もし、私がソファーに腰を下ろしているのではなく立っていたら、その場に崩れ落ちていたと思います。私は現実から逃避するように目を閉じました。心の中は悲しみと、恐れでいっぱいでした。この場から逃げ出し、そしてこの町からも逃げ出してしまいたい。そう思いました。
「大丈夫かね」
院長の声音は、言葉とは裏腹に私を気遣うようなものではありませんでした。どうにか頷きましたが、声は出ませんでした。
「今日はこれ以上言わないよ。明日は休みだ。月曜日までにゆっくりと考えて、私に全てを話して欲しい」
その後も院長は言葉を繋がれていましたが、私の頭の中には入ってきませんでした。気がついたときには、院長はソファーから腰を上げていて、私の退出を促すため、院長室のドアを開けて立っていました。
診療室に戻ると、すでに片付けは終わっていて電気も消されていました。今日はゴミ出しの担当の日でしたが、それも済んでいました。気分が酷く落ち込み、人と話しをすることを苦痛に感じましたが、お礼を言わなければならないとスタッフルームに急ぎました。
そこにはまだ二人の衛生士と受付の子が残っていました。着替えをほぼ済ませ、雑談をしていたのです。私が入ると会話が途切れました。
「ゴミ出し。担当だったのにごめんなさい。片付けてくれたのね」私は受付の子の名前を呼びました。
「いえ」彼女はおどおどした視線を、チーフの衛生士に向けたので、片付けてくれたのが彼女だとわかりました。
「ありがとう」私はそういいましたが、チーフは少し頭を下げただけでした。
「院長から何かいわれたんですか?」
質問してきたのはもう一人の衛生士でした。チーフと彼女は仲が良く、プライベートでも一緒に遊んでいるようです。
私は口を濁し、着替えを始めました。いつもすぐに帰るのに、三人はなぜかそこに留まっていました。
「盗みは良くないわ」
チーフが言いました。その言葉に私は愕然としました。この子達もAさんの犯行を知っているのだと思ったからです。しかし続けて発せられた言葉に、体中の血液が足の下まで下がるのを感じました。
「盗人と一緒に仕事なんて、怖くてできないわ」
驚いて振り向くと、もう一人の衛生士が顔を顰めてチーフをつついていました。
(あぁ……何てこと)
視線に受付の子が入りました。顔色が真っ白でした。私とほんの一瞬目が合うと、怯えた鼠のように視線をそらせ、鞄を掴み、それを一度取り落として、また慌てて引っつかむと部屋を出て行きました。チーフは私の横を通り過ぎるとき、あからさまにため息をつき、部屋から出て行きました。もう一人の衛生士も無言でその後を追いました。
(あの子達……私が犯人だと思っている)
静寂に包まれたスタッフルームで今度こそ私は立っていられなくなり、背中をロッカーにぶつけました。後頭部を少し打ちましたが痛みは感じませんでした。そのままずるずると床にしゃがみこみました。
(なぜ、私を犯人だと思うの。誰がそんなこと……)
受付の子の怯えた顔が浮かびました。彼女だと確信しました。私が何をしたっていうのでしょう。ちゃんと仕事はしています。患者さんの中には他の衛生士の手が空いていても、無口で愛想のないこの私を指名してくださる方もおられます。人と楽しく話すことは苦手でも、周りの人に不快感は与えないようにいつも気を使っているつもりです。私は静かに生きたいだけなのです。それなのにどうして。
自然と喉の奥から嗚咽が漏れてきました。
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