告白 第三章
3
私はメモ用紙に顔を落とし、住所を確認しました。空には雲一つなく、心地よい陽気が降り注いでいました。燦燦と降り注ぐ太陽が、私の翳す日傘の影を地面に落としていました。
目の前の豪壮な邸宅に、私は固唾を飲みました。立派な表札に書かれた氏名は間違いなくAさんのものでした。その横に
一回り小さな表札がかけられていて、そこには女性の名前が書かれていました。
昨晩、私はどうやって家に帰りついたのか覚えていません。気がついたときは自室のベッドの上で服を着たまま寝むっていました。時計を見ると夜中の一時を少し廻っていました。
目覚めた私は、体を引きずるようにして一階のリビングに下りました。灯りをつけると食卓の上に蓋の開いたカップラーメンが一つ置いてありました。たぶん仕事帰りの父が夜食代わりに食べたのだと思います。父も母も既に寝ているようでした。
私は台所に立ち、水道からコップに水を注ぎました。ゆっくりと飲み干すうちに、少しずつ思考が回復して来ました。
(このままでは嫌だ)
強くそう思いました。意を決して私は玄関まで行き、下駄箱の上のラックから自転車の鍵を取り出しました。
自転車に乗ると、まっすぐに医院を目指しました。昼間には夏の気配が忍び寄っていましたが、夜はまだまだ春の名残があります。闇の中から現れて後ろへ飛び退っていく風には冷たさが残っていました。
医院に着くと、私はスタッフ一人一人に持たされている鍵を使って、裏口から中に入りました。
かすかな消毒液の臭いが鼻に付きます。就職してからずっと嗅ぎなれている臭いです。診療室の電気をつけ、受付に向かうと患者リストを取り出しました。
そこにAさんの住所を見つけ、私はメモに取りました。
訪ねていってどうするのか。私には明確にこうしたいということはありませんでした。とにかく、医院の外で会わなければならない。そう思いました。
一人で朝食を済ませると(父も母もまだ寝ていました)、私は家を出ました。Aさんの住所は自宅からバスで十分ほどの場所になっていました。
バスを降りると、そこはかなりの高級住宅地でした。五分も歩かぬうちに、Aさんの家を見つけることができました。
それは予想通りの大邸宅でした。門構えからして立派で、大きな門の横には人一人が通り抜けるのがやっとといった勝手門がありました。門の両側には土塀が伸びていて、庭に植えられた松の木が顔をのぞかせていました。
私は気後れを感じましたが、鞄をきつく握り締めて、インターホンを押しました。鞄の中にはAさんからいただいた「星の王子様」の本が入っています。
時間が流れました。このまま帰ってしまいたい。留守ならそれでいい。緊張感に耐えられなくなって、一歩後ろに足を引いたとき、勝手門が内側に開きました。
白いシャツにねずみ色のズボンを履いた姿でAさんが立っていました。私の顔を見て、「やぁ」と声を発せられ、心底うれしそうに白い歯を見せて微笑まれました。思わずその屈託の無い笑顔に、私もわずかに笑みを浮かべてしまうほどでした。
「よく来てくれたね」そうおっしゃると、さも当然のように私を招き入れました。
門を潜ると、きれいに手入れされた庭があり、その向こうに玄関が見えました。
「庭師がやってくれるんだよ」
私の表情を見て、Aさんがおっしゃいました。導かれるままに足を進めました。かなり歴史のある建物なのだと思います。平屋建てでしたが、屋根には黒光りする瓦が載っていて、玄関の入口は引き戸になっていました。建物中は薄暗く、わずかに黴の臭いがしましたが、きれいに掃除されていました。ひんやりとした廊下を渡り、案内された部屋は和室で、開けっ放しにされた縁側を隔てて、優美な庭園を見渡すことができました。Aさんは私に部屋の中央に置かれた座卓を薦められ、部屋を出て行かれました。
私はしばらく、ここに到着するまでに抱いていた暗い気持ちも忘れて、すばらしい景色に見とれてしまいました。
「何もないが」Aさんが戻ってきました。丸いお盆の上に湯飲みが二つ載っていて、湯気が棚引いていました。
「妻がいれば、ちゃんとしたものを出せたんだが」
「お出かけですか」
「あぁ。三年前に黄泉の国へ旅立ったまま、まだ帰ってこない」
Aさんは目尻の皺を一層深め、寂しそうに微笑まれました。
「この家も、妻と二人だけの生活でも持て余していたのに、私一人ではどうしようもない。売ってしまおうとも思ったが、いろいろ思いでもあるから。なかなかね……」Aさんの顔に苦渋の色が走りました。「でも、あなたが来てくれるとは思わなかった」まるで早朝に咲く朝顔のように、Aさんの表情は変わりました。優しさに満ち溢れた笑顔でした。
私はここに来た目的を話すにはかなりの努力が必要でした。それでも決意を固め、口火を切りました。
「今日、お伺いしたのはこれをお返しするためです」
私は鞄から『星の王子様』の本を取り出し、座卓の上におきました。
「ほかにもいただいたものは、今日中に梱包して郵送させていただきます」
「どうしてだね」
私は言葉に詰まりました。Aさんの瞳は澄んでいました。私の言葉に戸惑いを感じて、不安に思われている様子も伝わってきました。
「……あの件、かね」
私は頷きました。何かしゃべろうとしましたが、上ずった声がでるのを恐れて、言葉をつむぎだすことができませんでした。
Aさんの瞳から優しさは消えませんでした。ただ瞳の奥からじわじわと寂寥感が押し寄せてきて、瞳の色を深く沈んだものへと変えていくような、そんな風に思えました。
「何か刺激が欲しかったんだ」
私は怖気を感じました。これまで描いてきた私の中のAさんという虚像が、平筆でどんどん塗りつぶされていきます。
「妻が死んでしまい。去年には会社も引退して人に任せている。会長職にあるからいくばくかの給料は入ってくる。これまでの貯えもある。私はこれから何一つ不自由せず、老後を送るだろう。ずっとこれから、静かで安穏な生活が続くわけだ。私は長い間、死に物狂いで仕事に没頭してきた。妻との間には子供もできなかった。しかし私はそれでいいと思っていた。仕事さえあれば、それでいいと……」
私はおじいちゃんのことを思い出しました。優しかったおじいちゃん。おじいちゃんは友禅染の絵師だった。おばあちゃんが亡くなってからは、おじいちゃんは私たち家族と暮らすようになり、仕事もやめてしまった。
私の中のおじいちゃんはいつも笑っている。私が十八歳の夏だった。おじいちゃんは脳溢血で倒れ、そのまま目覚めることがなかった。それでもおじいちゃんの死に顔は幸せそうに笑っていた。
「だから刺激を求めて万引きしたと」
やはり私の声は震えました。それにあわせるように膝に乗せた手も震えました。ハンカチを鞄から取り出してきつく握り締めましたけど、震えはいっこうに止まりそうにもありませんでした。
「いや」Aさんは遠い目をされました。そしてゆっくりと私の顔に目を落とされました。まるで愛する人を見つめるような視線でした。
「ばかげたことだとはわかっているよ。あんたにも嫌な思いをさせたね」
「他のところでも、あんなことをされているんですか」
Aさんは首を横に振りました。「あなたの勤める歯科医院だけだよ」
私は悟りました。私が二度もAさんの万引きをする瞬間を見たのは、偶然ではないと。それと同時に嫌悪感と恐怖心と、そしてほのかな喜びとが螺旋になって浮かび上がってきました。
「私が犯人だと思われています」
Aさんの目を見据え、ゆっくりと言葉を吐き出しました。私の心の中にAさんに対するサディスティックな気持ちがあったのだと思います。
はっと、Aさんは顔を上げました。驚きで目を見開いておられました。
「昨日、院長に呼ばれました。最初はAさんがされたことを私が知っていて、それを黙っていたことを責められているのだと思いました。でも、違いました」
「……どうして」
「お願いですから、もうやめてください」
Aさんは首を横に振られました。「もうやってないよ。二度目に君に目撃されてから、一度もやってない」
(うそつき!)
私は心の中で叫びました。心の中で叫んだつもりが、声となって口からこぼれていました。
Aさんは悲しそうな目をされました。しかしそれが全て偽善的な行為に見えて、私には腹立たしく写りました。
「それだけ裕福に暮らしていて、何の不自由もない人が……ただのわがままです!」
興奮して涙腺が耐え切れなくなって涙が頬を伝いました。私は立ち上がりました。
「私も疑われたまま、仕事をやめるのは嫌ですから。明日、院長に全てを話しますから」
私は頭を下げると、Aさんの傍らを走りぬけ部屋を飛び出しました。悲しくて、涙が止め処もなく溢れました。
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