告白 終章
5
新しい勤務先は前の医院から電車で二駅のところにあります。通勤は少し不便になりましたが、同じ町の歯科医院に勤める気にはなれず、偶然求人を出していた今のところに勤めることになりました。院長先生は女性で、私より十歳年上の若いドクターです。医院としてもまだ発展途上で、衛生士も私を入れて二人しかいません。
勤め始めたときは慣れない環境での緊張感から、毎日は飛ぶように過ぎ去っていきました。
院長も先輩の衛生士も非常に明るく、てきぱきと仕事をこなしていきます。二人とも口下手で反応の悪い私にも嫌がらずに話しかけてくれますし、私も徐々に彼女たちのペースにはまりつつあります。ここなら自分を変えることができるかもしれない。そう思えるようになりました。
一ヶ月が過ぎ、少し仕事に慣れてくると、ようやく周りが見えるようになりました。そうなると、衛生士業務としての物足りなさを感じるようにもなっていました、衛生士業務は予防主体ではなく、院長の指示があったときだけ、断片的にスケーリングをしているといった状態です。
院長は別に予防に対する意識が低いと言うわけではないようです。いろいろと勉強はされていますし、キュレットやその他予防に必要な器具も揃っています。しかし先輩の衛生士は今まで予防に直接携わったことがないらしく、今の助手としての仕事に何の疑問も持っていないようでした。
その日、患者さんのキャンセルが二件続き、私たちは交代で休憩を取っていました。私に休憩の順番がまわってきたため、スタッフルームでお茶を飲みながら、ぼんやりとしていました。
この医院での勤務を始めて数日経った時、私はAさんに手紙を書きました。
Aさんが万引きしたという罪は消えないと思います。ただ、私に二度見つかってからもうやめていたというのは事実でした。ご自宅を訪問したとき、あの人に浴びせた私の罵声は、やはりひどすぎたと思います。だからそのことが謝りたくて手紙を書きました。それと院長にAさんのことは何も話していないといったことを記載しました。私は名前だけを記し、自宅の住所や新しい職場についても書きませんでした。
扉をノックする音と同時に、先輩の衛生士が顔を出しました。
「電話が入っているわよ」
「私にですか?」
「うん。女の人」
「セールスとかじゃなくて?」
「たぶん違うと思うわ。あなたの名前を言うから、ちょっとお待ちくださいって言ったらキャーキャー騒いでいたわ」
なんだろう。思い当たるところはまったくありませんでした。仕方なく電話口に向かい、受話器を耳に押し当てました。
「替わりました」
〈あんた相変わらず暗い声して。探したわよ!〉
私は思わず受話器から耳を遠ざけました。声があまりにも大きかったからです。
「あの……」
〈もしかして忘れたの。私よ、私!〉
電話の相手は、前の医院で私の患者として診ていた五十代の女性でした。そう、私のことを愛想の無い衛生士だと毒づいていたおばさんです。
〈どんだけ探したと思ってんのよ。あのいけ好かない医者に聞いても知らないっていうし。あんた社員に逃げられたのって言ってやったら、えらく不機嫌な顔してたわよ。ほんと、あんたを捜し求めて歯医者ばかり三十件も電話したんだから。わかる? 三十件よ、三十件。耳が痛くなったわよ〉
「どうして、私を」
〈あんたしかいないでしょ。私の歯茎を治せるの〉
「……」
〈あんたがいたから、行ってたのよ。あの歯医者〉
「そんなことないですよ。私なんか……」
〈あら、嫌だ。あんた泣いてんの? やめてよ私まで泣けてきたわ。ほんと探したんだから。電話帳の数字ってちっちゃいんだから見えないのよ。ほんと目が痛くなっちゃって。今度NTTに文句言わないといけないわ〉
私は受話器を握り締めたまま、声を出して泣きました。驚いた院長が駆けつけてきて、変な電話なんだったら私が替わって対応してあげるからと言いました。私は何度も首を横に振りました。
おばさんは、できるだけ早い時間に診療して欲しいといい、その日の最終時間で予約を入れました。
歯周病の患者さんだと聞き、院長は不安そうな顔をしましたが、私に一番端のチェアを使うように指示をしました。私は戸棚にしまわれた真新しいプローブとキュレットを準備しました。
おばさんが現れたとき、私は少し恥ずかしくなって照れ笑いをしました。
「あんた、何だか顔色がよくなったねぇ」
彼女は病院内に響き渡るような大声でそういいました。私が診療を続けている間、先輩の衛生士は興味深そうに覗き込んでいました。
「あんたも、この人ぐらいうまくなるように見習いな」とおばさんが言い、私はひやりとしましたが、先輩衛生士は明るい声で、「がんばりまーす」とこたえました。その応え方がおもしろくて、三人で笑いました。
「そうだ、預かりものがあるんだ」
診察を終えて、受付で支払いを済ませた後、彼女は鞄の中から真っ赤な紙袋を出されました。
「ほら、なんて言ったかしら。名前聞いたんだけど忘れちまった。あのオシャレな紳士だよ。あんたの患者さんの」
「あっ……」
「私が歯医者の受付であんたのこと聞いてたら、もし会うことができたらこれを渡してくれって頼まれたのよ。会えるかどうかわからないって言ったら、あなたなら見つけられるでしょうって。どうして私の行動力の凄さがわかったのかしら、なかなかたいした紳士だわ」
私は赤い紙袋を受け取りました。小さな白いリボンがついています。
「すごいわね。患者さんから贈り物もらうんだ。私、もらったことないなぁ」先輩衛生士が呟きました。
「あと二人ほど、あんたの行き先探してる患者さんいるからさ。また予約はいると思うわよ。あんたね、職場変わるときはちゃんと連絡しなくちゃ。頼りにしている人間がいるんだからさ」
「はい」
「あら、なんで泣いてんのよ! 私、人の涙に弱いのよ。やめてよ、何だか悲しくなってきたじゃない」
おばさんは私の肩をバシリと叩きました。
でも私は泣いてしまいました。なぜかおばさんもオイオイ泣いていました。
Aさんがおばさんに言付けて届けてくれた物は、私がつき返した『星の王子様』の本でした。小さなカードが同封されていました。『あなたの物です。お返しします。子供じみた行動を取った自分を恥ずかしく思っています。お許しください』と書かれていました。
おばさんは相変わらず診療に通ってきます。以前勤めていた医院から、他にも二人の患者さんが遠い道のりを通って診療に来てくださいます。
徐々に予防や歯周病治療のための患者さんも増えてきて、私も先輩の衛生士も、忙しく働いています。
Aさんはまだ診療に来られていません。もう、来られないかもしれません。でも、もしお会いできることがあれば、以前とは違う、私の笑顔に驚かれることでしょう。
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